おでかけ

週末になると、ふらっと何処かへでかけています。


小学生の息子が作った
LINEスタンプ



ここをクリックしてね。


スポンサードリンク

あの日、あの時 私の3.11


スポンサードリンク

皆さん。こんにちは。

今更ですが、

2011年3月11日、あなたは、どうしていましたか?

僕は、横浜駅近くの16階建てのビルの11階にある整体の学校で、整体の実技練習をしていました。

丁度、横向きの手技を習っているときに、大地震がやってきました。

ビルがぐるぐると回るように大きく円を描き、ゴロゴロと音をたてながら回りました。

しかも長い時間。

このまま死ぬんじゃないか。

窓の外に放り出されるんじゃないか?

確か、高層ビルって、ビルの途中から折れるんじゃないか?

なんて思いながら、整体のベッドの下に潜り揺れが収まるのを待っていました。

本当に怖かった。

先生が、冷静に骸骨の模型が倒れないようにして、つかんでいました。

今から思うと、先生も怖かったでしょうね。

生徒達が、パニックにならないように、

冷静さを装っていたのかも知れません。

 

そして、揺れが収まりました。

あまりの恐ろしさに、腰を抜かして立てない人達がいたので、僕は、一人一人、手を引っ張って立ち上がらせました。

 

そして、みんなで階段で1階まで降りる事になりました。

僕は、

ビルがこのまま閉鎖されるかもしれない。2度と11階まで上がれないんじゃないか?と、感じ、上着と荷物をロッカーから取り出し、みんなで階段を降りました。

階段は、壁にヒビが入っている所が何箇所もあり、いつ崩れてくるかわからない。と、逃げながら、みんなで話しながら降りました。

一階まで着くと、ビルの前の広場に列でまとまり、先生の指示を仰ぎました。

その時、余震があり、近くの三角のビルの壁のタイルが、ボロボロと落ち始めました。

ビルの3階のイタリアンのお店の非常階段から、料理人たちが3人急いで逃げ始めるのが見えました。

そして、今にも倒れるのではないかと思うほど天理ビルが大きく揺れているのが見えました。

そのうち他のビルから逃げてきた大勢の人達が、この広場に集まってきました。

みんなパニックになっています。

 

携帯も繋がらず、ネットの情報も分からず、今、何が起こっているのか。全く分からない状態でした。

 

揺れは収まり、これからどうするか?と考え始めました。

 

帰るにはどうしたらいいのか?

家族は無事か?

とりあえず、電車が動いているかどうか見に横浜駅に行く事にしました。

f:id:hachi555:20170527070021j:plain

横浜駅に着くと改札口は真っ暗で、電気が通っていない事がわかりました。

電車が全く動いていない。

動く見込みもない。

駅ビルが、灰色に見え、辺りが凍りついているように感じました。

 

そのうち、救急車のサイレンが、あちらこちらから聞こえてきました。

駅の売店で、携帯の電池式充電器と、カロリーメイトを買い、電車で帰る事を諦めました。

その間にも余震がありました。

家族はどうしているだろう?

何度も携帯をかけてみたけれど、繋がらない。

f:id:hachi555:20170527070654j:plain

横浜駅から、元にいたビルの前の広場に戻り、1つの決断をしました。

それは、「歩いて帰ること。」を決断したのです。

 

小雨が降り、小雪もまじり、寒く、整体学校の白衣や教材が入った重いナップザックを背負いながら、帰ることにしました。

帰り道の道路には、マンホールが持ち上がっているところもありました。

歩いていると、公衆電話を見つけました。そこには、10人くらいの列ができていました。

ここから、家に電話しよう。

小銭は、わずか10円しかない。

15分並んで、自分の番がやってきました。

3コール目で家に繋がりました。

妻は職場から車に乗って、息子を保育園から連れて、帰宅していたようです。

「お父さん、無事だから。歩いて帰るから。大丈夫だから。」

そう話したら、電話が切れました。

後から聞いた話では、それから30分後に、公衆電話は無料になったとか。

家族が無事なのが確認できたので、ほっとして、足取りも軽やかに歩き始めました。

国道は大渋滞、歩道も歩く人でいっぱいになっていました。

歩いていると見知らぬ人から、「寒いけど、頑張って」「お互い頑張ってかえりましょう。」などと声をかけられ、勇気を頂きました。

歩くこと1時間、どのファミレスも店を閉めていましたが、すき家が営業をしていました。

トイレを借りて、暖かい牛丼を一杯食べました。

すき家は、女性の店員1人で回していました。

本当に、このすき家の休憩は、オアシスのようでした。

今でも、すき家の店員さんに感謝しています。


それから、すき家を出て歩くこと3時間、ようやく我が家に着きました。

家族とも感動の再会をしたのもつかの間、テレビには、信じがたい光景が映し出されていました。

 

1度だけ訪れた事のある陸前高田気仙沼の被害状況を見て、涙が止まりませんでした。

 

次の日から、コンビニやスーパーでは、買い占めが始まり、ガソリンスタンドでは、朝早くから並んだものの、警察のお達しで、給油の制限がされ、給油を断られました。

また、家は計画停電の地区にもなりました。

計画停電中は、暖房も電気の明かりもなく、不安な中、家族で布団にくるまって、懐中電灯の光でトランプをして過ごしました。

昼間、電車は途中の駅から、全て各駅停車で運行していたので、電車の運行している駅まで徒歩で行き、いつ乗れるとも分からない長い長い列に並び、緊急地震速報が鳴り響く電車にのり、横浜に通いました。

また、新橋から、ゆりかもめに乗って通う事もあり、横浜駅では、帰りの電車に乗るのに、2時間かけて並んだ事もありました。

余震があると、直ぐに電車が止まってしまいます。みんな、物凄い怖い思いをしたのに、1人として騒ぐ人はいませんでした。

これは、凄いな。と、思いました。

 

あれから7年。

あんなに恐ろしい目にあったのに、もう、忘れてしまったのか?

非常用の水や食料の備蓄も1サイクルしたのに、買い足していないのが現状です。

 

これを書いたら色々と思い出しました。

いつ起こるかもしれない、災害の為に非常用品を買おうと決意しました。

 

今更、なんでこんな記事を書いているのか、自分でもわかりません。

ただ、忘れてはならない事を忘れないうちに記しておきたかったのです。

 

震災にあわれた方々、今でも大変だろうと思いますが、頑張ってください。

心から応援いたします。

また、亡くなられた方々の、ご冥福をお祈り致します。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます😊


スポンサードリンク