おでかけ

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北の大地へ その③ 札幌市時計台


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みなさま。

こんにちは(^^♪

お元気でしょうか。

 

今回は、札幌市時計台に行った事を書きます。

かつて、札幌市を訪れた時に、地元の方の車で札幌市時計台の前を通った事があったのですが、ちゃんと訪れた事はなく、今回、札幌市時計台に行く事を楽しみにしていました。

当時、地元の方が、「時計台、ちっちゃいでしょ。もっと大きいかと思っていたでしょ。みんな、そういうんだよ。」と、言っていた事を思い出しました。

しかし、「いつか自分の目でみてみたい。」と私は思っていました。

 

私たちは、大通り公園から歩いて、札幌市時計台の前に着きました。

おお。間近で見ると良いですね。

すごく立派な建物です。

時計台の赤い星は、開拓使のシンボルなのだそうです。

この星は、北の大地を開拓するという強い精神を持った人たちが北極星をシンボルマークにしたそうで、時計台には17個あるそうです。

道庁やビール会社の星も一緒のシンボルマークなんだそうです。

サッポロビールの星マークは、そういう意味だったんですね。

時計台の1階には、札幌市時計台の歴史や建物の設計図や、それに関わった人たちについて、展示がしてありました。

そこには、有名なクラーク博士の事や、農学校2期の新渡戸稲造の事も書いてありました。

 

時計台の事について、調べましたので以下に書きますね。
クラーク博士のあとを継いで2代目教頭となったホイーラー先生が基本構想図を作り、開拓使工業局主席建築技術者安達喜幸の設計、監督により、演武場が1878年明治11年)10月16日に完成したそうです。
1階は研究室、講義室、動植物や鉱物の博物標本室として使われ、
2階が「演武場」として兵式訓練や体育の授業に使われるとともに中央講堂として入学式、卒業式、催事場として使われたそうです。
完成した当初の演武場には時計塔はなかったそうです。
時計塔は1888年明治21年)に札幌の標準時計に指定され、1里四方に響き渡った鐘の音は「農学校の大時計」として市民に親しまれてきたそうです。
 1903年明治36年)に農学校が移転した際、演武場は当時の札幌区が借り受けたそうで、
この頃から演武場は「時計台」と呼ばれるようになったそうです。

1階の展示してある資料を読んでいると、係の方から札幌市時計台について説明を受ける事ができました。

そして、「電気の通っていなかったこの札幌のこの時代に、どうやって時計を動かしたのでしょうか?答えは2階にあります。」というクイズを出題されました。

さあ、どうやってでしょうか?

 

階段を上って2階に行くと講堂になっていて、ここが演武場だったところのようです。

入って右側にクラーク博士の銅像と写真の撮れるベンチがありました。

奥の方に進んで行くと、時計と鐘の事についての展示がありました。

先程の「どうやって時計を動かしていたのか?」の答えがここにありました。

答えは、「振り子で動かしていた。」でした。

時計を動かすための、おもりについての説明が書いてありました。

おもりには豊平川の玉石が使われていたのですね。

札幌時計台、想像していたものとは全然違っていて、立派な時計台でした。

行ってみて良かったです。

次回は、旧庁舎をお送り致します。

本日も最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。

 

 

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