おでかけ

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あの日、あの時 私の3.11 その2


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こんにちは。

東日本大震災から7年の月日が経ちますが、

何故か今、ブログにその事を書いています。

今日は、その2回目です。

 

震災が起った後の、当時の様子を振り返っていると、色々と思い出しましました。

 

当時、息子が小さかったので、牛乳を買ってあげようとしたのですが何処にもなく、色々なスーパーやコンビニに行きました。

そして、やっと手に入れた牛乳2本をカゴに入れてレジの前の長蛇の列に並んでいると、レジ担当の人に申し訳なさそうに、「お一人様1本までなんです。」と言われました。

知らなかった。

ああ、失敗したな。と、思っていたら、

後ろに並んでいた女性の方から、

「私が買ったことにして、お代を払っていただければ」と言って頂いた事を思い出します。その方には、今も感謝しています。


そういえば、当時、電車も途中の駅からしか動いていなくて、バスも超満員で乗れなかったので、そのまま駅まで歩いて行くと、電車に乗るの人の列が、駅から約500m先まで繋がっていました。

電車に乗るまでに1時間待たされ、

しかも、動いている電車は全て各駅停車。

普段は、昼間でも電車の車内は蛍光灯が点いていますが、震災直後は、電車の中の蛍光灯は消え、暗い電車での移動となり、ただでさへ震災後の暗い気持ちの中、更に暗い気持ちへとなっていくのでした。

電車に乗っているときも余震があり、東京に向かう満員電車の中は、携帯から流れる緊急地震速報の警告音で更に緊迫し、電車が急停車するのでした。

それによって、電車が遅れ、遅刻する事もありました。

でも、電車の中は、ため息をつく人はいても、騒ぐ人は誰もいなかったのが、凄い事だと思いました。(ここら辺は、前回と同じことを書いていますね。)

帰りの電車のお台場からの、ゆりかもめは、余震がある度に停まり、新橋まで着くとほっとして、満員電車の東海道線に乗り換え、横浜に向かうのですが、横浜に着くと相鉄線に乗る人の列が、東口のポルタの上にまでおよび、相鉄線に乗るのに2時間もかかった事もあります。

 

あれから、職場が変わる度に、震災が起きた際に、家まで歩いて帰る方法を考えるようになりました。

これから、どうすれば良いのか?考えました。

・防災グッズを購入しましょう。

・家族の連絡方法を考えましょう。

・連絡が取れないときの避難場所を決めましょう。

・帰宅するのに体力をつけるべく、土、日のどちらかは、長距離を歩きましょう。

まずは、出来ることから始めようと思います。

 

横浜の若葉台団地の花火大会では、震災の年、

「鎮魂」の掛け声と共に花火が打ちあがりました。

 

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本日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 


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